新都社 文藝新都

おにやんま




 暦の上では秋も盛りの頃合であるが、異常気象の残暑厳しいある日の昼下がりであった。集合住宅の一室から少年が姿を現した。眠気を振り払うように体を伸ばし、そのまませかせかと歩き出した。駐輪場に差し掛かったとき、少年は視界の端に違和感を覚えた。あたりを見渡すと、大型二輪の駐めてあるすぐそばの地面に、一匹のオニヤンマが羽根を広げてじっとしている。トンボはこちらに背を向けているのでその表情は伺えない。息を殺して足音を忍ばせる。近づくにつれ、その大きさがはっきりとしてくる。

 少年の口から感嘆の息がもれた。少年は田舎生まれの田舎育ちであった。自然に親しむ虫獲り少年の目を通してなお、このオニヤンマは今まで出会ったどのトンボよりも巨大であった。捕まえたい、という、中学生男子の本能が働くと同時に、いや待て、様子がおかしい、という、狩人の本能が、獲物を観察するだけの冷静さをもたらした。少年は確信を持って目標に接近し、回り込み、しゃがみこんでトンボと目を合わせるべく顔を近づけた。

 オニヤンマは、すでに事切れていた。最初に感じた違和感はこれだったのかと腑に落ちた。夏の青空を自在に翔ける子どもたちの英雄は、羽根を休める際には、緑の草や木の枝にとまらなければならなかった。昆虫のみずみずしい生命力を奪う、冷たく無機質なコンクリートやセメントの地べたに這いつくばってはいけないのだった。仮に、そのような格好であるならば、それなりの理由があるはずだった。やはり、オニヤンマは死んでいたのである。着地した後に息絶えたのか、飛行中に力尽きて舞い落ちたのか、はたまた、別のどこかで臨終したのが風に吹かれるなどして飛ばされてきたのか、その理由はわからなかった。

 そっと手にとり、目線と同じ高さに持ち上げてしげしげと眺める。透きとおった四枚の羽根は左右に大きく広げられて、少年の、両の手のひらを上下に合わせて、中指の端から端までの長さと同じくらいである。絵筆のように太い胴体は、それよりはやや短いが、それでも、手のひら一つ分と親指一つ分ほどの長さがある。黒と、落ち着いた黄色の太い縞模様が目に鮮やかだ。頭部には、大ぶりの顎が力強く前に突き出し、ひと組の、これもやはり大きな複眼が、静謐な深緑の光をたたえている。見れば見るほど威厳に満ち満ちた姿である。再び少年は嘆息した。死してなお、威風堂々たる空の英雄であった。

 不意に立ち上がり、少年は駆け出した。少年には、特に仲の良い友達が二人、近所にいる。二人の親友のうち、男の方は、今日は、法事のために東京へ出かけるとかで留守にしているはずだった。女の方は、在宅のはずである。彼女に、オニヤンマを見せに行くのだ。

 川を渡り終えたとき、少年は世界中の喜びを一挙に手にしたような興奮をおぼえた。この川は水難事故が多発することで知られる。そのため大人たちは、この川には近づいてはいけない、ましてや泳いだりしては絶対にいけない、と、子どもたちに口を極めて警告していた。少年は、泳いだわけではない。浅瀬が、向こう岸まで続いている箇所を選び、さらに飛び石をつたって、渡っただけだ。川を渡るポイントはいくつかある。ここから下流に行けば歩行可能な頑丈な橋がある。さらに下れば鉄骨入りの、もっと大きな橋がある。少年の移動範囲内には、それ以外に橋はない。もちろん橋を使えば無事に川を渡れるが、それでは大きく迂回することになる。少年には、それがまどろっこしい。少年は、最短距離を走った。一目散に彼女の家を目指したのだった。

 目的の家に到着したとき、少年の内に悪戯心がもちあがった。正面玄関から入るのはやめよう。裏から回って、彼女の部屋の窓を叩いてやろう。きっと驚くに違いない。その上、この素晴らしいオニヤンマを目にして、再び彼女は驚くのだ。高級な手土産を持参した面持ちで、せり上がる笑いをこらえながら少年は小走りに急いだ。はたして彼女は部屋にいた。そして、もう一人、もう一人の親友の姿があった。少年はおかしいと思った。彼は今、東京にいなければならない。東京にいて、親戚の法事に出席していなければならない。この街にいるはずがない。彼女の部屋にいるなんて、なおさらのこと、ありえない。
 ここまで考えたときには、少年の足はすでに元来た道へと動き始めていた。

 気がつくと川のほとりに立ちすくんでいた。どれだけの時間そうしていただろうか。夜の帳がおりていた。この川を渡れば自分の家だ。しかし家に帰ったところで、もとの日常に戻れるわけではなかった。それがわかるだけ、川を渡れずにいたのだった。うつむいた視線の先の川面には、夜空を照らす月が明るく映り込んでいる。おまえはどうしてそんなに明るくいられるのだ。無性に気が急いて、ひといきに渡りきってやろうと水際に駆け込んだが、石にけつまずいた。派手に水しぶきを上げて、真正面から川の真ん中に倒れ込んだ。

 少年は、川の流れを背にして夜空を見上げている。満月である。中秋の名月である。いくら日中が暑いといえども、日の暮れた後は肌寒さを感じる時候である。ましてや全身がずぶ濡れの少年が凍えぬことがあろうはずもない。しかし、はらの底の煮え立った感情は、不思議と凪いでゆくのだった。火照る体に水の冷たさが心地よい。そのまま、川が体温を奪うに任せた。はるか天上には十五夜の月が照り映えている。満月のもとでは、有象無象の夜空の星は輝きを失い、暗闇と同化してしまう。空は、月の所有物だった。
 ふっ、と我に返り、少年は、右手をかたく握りしめているのに初めて気がついた。右手をひらくと、水に濡れ、汚くへし折れた虫の死骸があらわれた。しばらくそれを眺めた後、黙って視線を上に向けた。少年は、目の焦点を月に合わせたまま、自分の頭を水中に沈めた。おぼろにくすぶる望月が、少年の目には優しくみえた。

 それから月日が流れた。少年は高校生になり、新しくできた友達を自宅に招いたついでに、一緒に川へ遊びに来ていた。水切りに興じていると、よく跳ねそうな手頃な石が見当たらなくなったので、手分けをして、石を探して歩き回ることにした。流れから少し遠ざかり、灌木が生い茂る一角に、自然と足が向かった。かつて少年が、トンボの亡き骸を捨てた場所であった。
 しばし、往事に思いを馳せる。死骸は、持って帰っても仕方がないので捨ててゆくことにしたのだった。それがこのあたりである。そして帰宅してから、両親への、特に濡れ雑巾の言い訳に苦労したことをよく覚えている。それから当時の、自分を含めての三人は、三人とも別々の高校に進学した。今、二人がどうしているか、少年は知らない。
 少しだけ気になって、少年は地面に目を凝らした。あのトンボの残骸が、まだ残ってはいやしないかと思ったのだ。しかし、何者かに捕食されてか、あるいは土中の微生物に分解されてか、残骸はかけらも見つからなかった。少年は、自分を呼ぶ声に振り向いて、立ち上がろうとして、ふと、なんの気もなしに、もう一度、地面を振り返った。きらり、と、あの日のオニヤンマの透き通った羽根のかけらが、太陽の光を受けてきらめいたような気がした。
 今度こそ立ち上がり、彼は仲間の声に応える。もう羽根を見ようとはしなかった。駆け寄ろうとしたとき、木の葉が風に運ばれてきた。どこから流されてきたのであろうか、それは一枚の桐の葉であった。季節がめぐり、彼の心にまた一つ、新たに秋がやって来た。