新都社 文藝新都

鬼ごっこ



 高校一年生の太一は美術部に所属している。放課後はいつも部室に残って、キャンバスに向かってせっせと絵筆を走らせている。この男、別に、絵が好きなのではない。ましてや絵描きになりたいなどという大それた野望は露ほども持ち合わせていない。だが彼は、もしかするとそれ以上に大それているとさえ言える野望を胸に秘めていた。

 彼に背を向けて、同じように絵を描いている少女がいる。凛、と透き通った空気を身にまとう、まごうことなき美少女である。太一は彼女に惚れていた。もちろん、彼女は知る由もない。クラスメートで、ちょっと背の低い、おとなしい感じの、部活仲間の男の子、というただそれだけの認識である。太一は彼女とまともに目も合わせられない。背中合わせに座るのも、別に彼女が太一を嫌っているからではない。彼女をまともに視界に入れられない太一のほうが、顔を隠すように反対側を向いているのだ。太一は、彼女とまともに口も聞けない。部活で顔を合わせた時の挨拶、もとい社交辞令に、かろうじて返答らしき鳴き声を唇の隙間から小さく発するだけだ。どこまでも引っ込み思案な太一だが、どうしてどうして、意外に強情な一面もあった。彼女の近くにいたい、というただそれだけの理由で、女子部員の多い美術部に入ったこともその一端の現れだ。女子、と言うだけで顔が赤くなるような、痛々しいほど純情な太一にとって、これは一世一代の大勝負だった。もっともこれは、仲のよい男子生徒が一緒に入部しないかと誘ってくれたから、その申し出に渡りに船、ここぞとばかり食いついたのが大きかったとも言えるが、それはそれとしてともかくも、これと決めたらまっすぐ進む、清々しい性格を有してもいた。少しでも彼女に近づくために、太一は涙ぐましい努力を重ねた。まず、彼女と同じ道具を使うことにした。彼女と同じ鉛筆を使い、鉛筆を削るためのカッターナイフも彼女と同じものを使い、彼女がデッサンする物を太一も同じくデッサンし、彼女と同じ絵筆を使い、彼女と同じ絵の具を使い、彼女と同じパレットを使い、終わって絵筆を洗う際には、彼女が洗った蛇口と同じ蛇口を使って絵筆を洗うのだ。道具だけではない。彼女の、ぴん、と糸を鋭く張りつめたような気高く美しい後ろ姿を、太一は真似た。くっ、と深く顎を引き、きっ、と真正面を見据える麗人の凛々しい姿を太一は真似た。絵の描き方をも太一は取り入れた。少しだけ青色を多めに使う、彼女の色使いを太一は真似た。小指と薬指をふわりと広げる彼女の絵筆の持ち方も真似た。太一は、絵を描く時間だけとはいえ、彼女と同じ身振りをしていることのよろこびに震えた。彼女と僕は一心同体だ。違っているのは、二人が存在する座標軸がわずかばかりずれているという、ただそれだけのことだった。それでいて、描き上がる絵は似ても似つかぬ、まったく別のものになるのがおかしかった。彼女の絵に比べれば、太一のそれは落書きだった。太一は、それで満足だった。

 部活を始めて半年ばかり経ったある日、美術部が出展していたある絵画コンクールの成績結果が発表された。彼女の作品は銅賞だった。太一は凍りついた。太一の落書きは銀賞だった。
 やるじゃない、という彼女の声が聞こえる。少年はうなづくばかりで、どうしても喉から音が出ない。わけもわからず胸の奥からせり上がってくる羞恥に悶える少年を覗き込んで、彼女は言う。次は、わたしが金賞を獲るから。破顔一笑、少年の眼前に大輪の花が咲き誇る。部活仲間も英雄二人に、やんややんやの賛辞を送る。少年は、あたふたとかしこまるばかりだった。またも少女は少年に言う。負けないから。そうして流し目を寄越すのだ。少女のほころぶ顔を、やはりまともに見ることはできない。少年にとって、少女の負けず嫌いな一面は、すこし意外に感じられたが、少年の幸福を突き崩すにははるかに遠く及ばない。どうやら少年は、追いかける立場から追いかけられる立場になったようである。