新都社 文藝新都

第二話 シバテン




 さて、「姫若子」の弥三郎であるが、この男、屋敷から一歩も外に出ない日が続いたかと思えば、ふらりと外出したまま戻らぬときも稀にあった。

 だいたいの武術は嫌いだったが、唯一、馬術だけは熱心に取り組んだことがある。このため馬の扱いには長けており、その腕前は今回のような逃亡にも活用される。仮にも一家の後継なれば、周りの者は弥三郎の放浪癖に頭を痛めたが、当の本人はとんと気にせず、どこ吹く風のすまし顔である。
 この日も弥三郎は、鷹狩りと称して、内陸の岡豊城からは少し離れた海沿いの山に向け、愛馬の「野分丸(のわきまる)」を走らせていた。

 南国・土佐といえども、晩秋ともなれば朝方はやや肌寒さを覚える。
 夜明け前に岡豊城を飛び出した弥三郎は、朝もやの中、いまだ眠りから目覚めぬ村々を、極力音を立てぬように通り抜ける。
 村は決して豊かではない。だが、村の質素な生活の中には、戦乱の世を生き抜く力強さが通底している。
 領内の村の風景を横目に流し見ながら、弥三郎はなんとなく明るい気分になる。

 しばらく馬を飛ばすと、五台山(ごだいさん)に到着した。
浦戸湾に面したこの山には竹林寺(ちくりんじ)という真言宗の寺院がある。行基が開き、夢窓疎石が庭園を作ったと伝えられる竹林寺は、四国八十八箇所の霊場にも数えられる、霊験あらたかな寺院である。弥三郎は、竹林寺の人間に見られるとなにかと面倒になりそうな気がしたので、目立たぬ木立に野分丸をくくりつけ、人目を避けてこっそりと山を登っていった。
 やがて、木々がひらけて見晴らしのよい場所に出た。
 日の出の時刻には間に合わなかったが、浦戸湾、その向こうの桂浜のさらに遠くの太陽から届く、暖かい光が心地よい。
 朝の陽光に包まれて、弥三郎の口からあくびが漏れた。草の上に横になり、しばし、まどろむに任せる。

 どれほどの時間が経過しただろうか。
 眠りから覚めた弥三郎が山を下りようと立ち上がると、寝る前と風景が違うような気がする。熟睡したつもりはない。まだ昼前のはずである。しかし、妙に薄暗い。立ち上がって、しばらく歩いてみるが、同じところばかりぐるぐると回っているような変な感覚である。どうやら道に迷ったようである。だが、ただ道に迷っただけでは、なさそうである。

 来たか。

 弥三郎は内心、安堵する。この妙な感覚は、今までに何度も経験がある。
 弥三郎は山の声に耳を澄ます。無論、人の言葉が聞こえるわけではない。木々の葉を揺するざわめきや、山鳥や獣が発する音の響くさまを肌で感じ、何者かに導かれるようにして、自分でもよくわからぬまま、足の行く先に歩を進める。そうしてしばらくすると、森の奥に少しばかり開けた土地を見つけるのが常であった。そしてこの日も、予想した通り、生い茂る緑をかき分けてゆくと視界が唐突にひらけた。そこには先客が一人、松の切り株に腰掛けていた。

「今日は『大臣(おとど)』一人かい?」
 弥三郎が軽く手を挙げて問いかける。
「いや、もう一人。じきに『中将』が戻ってくるはずじゃ」
「そうかい。でも久しぶりだね、こうして会うのは」
「そうじゃのう。わしらも丁度、弥三郎はどうしておるかと話し合っておったところじゃったわい。この頃、顔を出さんからのう」
「そんなこと言ったって、君たちには、会いたいと思って会えるものでもないじゃないか」
「ほほほほ、それもそうじゃな」
 そう言うと二人は笑った。

 弥三郎と相対するのは、異様な出で立ちの生物であった。

 事情を知らぬ他国の人間ならば、遠目に、猿か、と見まがう獣である。人間の子どもほどの背丈であり、笑う口元からは牙が覗く。しわくちゃの赤ら顔は愛嬌さえ感じられる。茶色の体毛で覆われた全身は、一見、確かに猿のようである。しかし猿とは決定的に異なる点があった。頭のてっぺんに、髪を剃り上げたような丸く禿げた跡がある。いや、違った。皿、である。獣は頭に皿を一枚、載せていた。
 「シバテン」であった。土佐の国では名の通った、妖怪である。

 弥三郎は、足元にあった大きな石に座って、老いた妖怪に向き合った。
「『大臣』は元気にしてた?」
「そうじゃのう。わしも歳じゃが、大きな病気もせずにいられるのは幸せかもしれないのう」
「ぼくが来ないあいだ、誰かに会った?」
「ほほ。ここは誰でも来られる場所じゃ。来ようと思って来られる場所ではないが、ここを訪れる機会は誰にでもある。弥三郎でなくとも、わしらと会った人間はいくらでもおるぞ」
「そっか。それもそうだね」
「じゃが、弥三郎ほど頻繁にここに迷い込む人間も、そう多くはないがのう」
「ふふん、ぼくは生き物の気持ちがわかるからね。耳をすませば、馬や鳥、虫や魚の声が聞こえるよ」
「わしらシバテンは、はたして生き物なのかのう」
「妖怪だって、生きていることには変わりがないじゃないか」
「ほほほ、そうかもしれぬのう」
 談笑する二人の横から、ガサガサと草をかき分ける音が聞こえる。やがて、シバテンがもう一匹現れた。
「わりぃわりぃ、遅くなっちまった。いやね、たまには魚を食べるのもいいかと思ってよ、ふもとの川まで下りてったんだけどよ、そこに・・・・・・」
 新たに出現したシバテンは、弥三郎の目の前に座っているシバテンよりも若く、溌剌(はつらつ)としている。若い妖怪はそこまでしゃべると、留守の間に増えた人間の存在に気がついた。
「ヒメ! ヒメワカじゃねえか!」
 旧友と再会した喜びを隠そうともせずに、弥三郎のもとに駆け寄ってきた。
「ヒメワカ、おめぇ生きてたのか!」
「ヒメヒメうるさいよ、ぼくはヒメじゃないよ! 弥三郎元親っていう名前があるんだから。なんど言ったらわかるんだ、もう」
「おうおう、そんなにカッカするなよ。わりぃわりぃ、俺が悪かった。謝るよ。すまねえ」
 神妙に平伏する仕草を見せる妖怪に、弥三郎は苦笑する。
「まあ、別にそんなに怒ってなんかいないよ。ぼくが姫若子って呼ばれているのは本当のことだしさ」
「ほら、やっぱりヒメワカじゃねえか」
「ヒメワカじゃなくてヒメワコだよ。じゃなくって! そうじゃないんだってば!」
「へへ、わりぃわりぃ」
 そう言ってシバテンはピョンピョンと跳ね回る。ややあって、二人とも落ち着きを取り戻す。
「『中将』に会うのも、久しぶりだね」
「へへ、そうだなあ。ここしばらくは顔を見てなかったな」
 さきほどから弥三郎が呼んでいる『中将』というのは、この若いシバテンのあだ名である。本当は別に名前があるのだが、それは妖怪の言語であり、人間には発音ができない。そのため、弥三郎があだ名をつけたのだった。同じく『大臣』は、老いたシバテンのあだ名である。
「そういや中将、話の途中だったね。途切れちゃったから続きを話してよ」
「おお、そうだったそうだった。ええと、どこまで話したっけな、そうそう、魚が食べたいと思ってよ、ふもとの川まで下りてったのよ。するとおめえ、下りてった先によ、エンコウの連中がたむろしててよ」
 エンコウというのは、これも妖怪の一種である。エンコウは、全身を青緑色の細かいウロコで覆われて、あたまに皿を載せ、とがったクチバシを持つ、水辺に住む妖怪である。いわゆる、普通のカッパである。エンコウとシバテンは、いわば親戚関係にある妖怪である。
「そいつらがよ、アユをくれたんだよ。余ったからって言って、おすそ分けだとよ。ほら」
 そう言って、手に提(さ)げていた五匹の川魚を前につき出す。エンコウの食べた残り物ということなので、良い魚ではないかと思いきや、そこそこの大きさのアユである。
「エンコウってのは、あいつらもたまにはいいことするんだよなあ。おい、ヒメ、焼いて食っちまおうぜ」
 弥三郎は、朝食もとらずに城を抜け出してきたことを思い出し、急に空腹を覚えた。

「それにしてもよ、この頃はキナ臭くっていけねぇや」
 食後の一服をしていると、中将が苦々しげにそう言った。
「そうじゃな。少し前まではそうでもなかったんじゃが、また住みにくくなってしもうた」
 弥三郎がつぶやく。
「いくさ、のこと?」
 二匹のシバテンが同時にうなづく。
「そうじゃ。この国には、血の匂いが充満しておる」
「っつうか、もうすでに、現に血が流れてるしな」
 嫌なんだよ、いくさは。俺たちシバテンはよ、ニンゲンの血の匂いが大っ嫌いなんだ。そりゃ、カスリ傷程度なら気にはならねぇよ。だけどよ、人間のいくさってのはよ、そんなもんじゃ済まねえだろ。俺たちは、それにガマンがならねぇんだ。俺たちシバテンはよ、人間のいくさに迷惑を被ってんだよ。山奥に引っ込んだ仲間もいらぁ。でも山奥は、ここに比べると、やっぱり食いもんが少ねえんだ。できることなら、ここにとどまっていたいんだよ、俺たちは。
「だいたい、なんでいくさなんかするのかねぇ。俺にはそれがわからねぇ」
「・・・・・・そうだね」
 弥三郎もいくさは嫌いである。中将の言い分にも、もっともだと思うところがある。
「あのさ、シバテンは喧嘩しないの? たとえばほら、エンコウと縄張り争いになったりとか」
「そりゃおめぇ、シバテンだって喧嘩くらいすることもあるぜ。とくにエンコウの連中とは、食いもんの好き嫌いが似てるからな、好物の取り合いになったりとかはよくあることだぜ。いつだったか、ある夏、日照り続きでキュウリがほとんど採れねぇ年があったんだ。あんときゃ、両方、一族郎党、総出で殴り合いにまで発展したもんよ」
 だけどな。殺しはしねぇ。殺しはしねぇよ、俺たちは。
「いくさが止められねぇのなら、いくさの数を絞ってくれよ。必要最低限のいくさだけにしてくれよ。無意味ないくさはしないでくれよ」
 そんでもって、このバカみてぇないくさだらけの世の中を、早く平和にしてくれよ。
「なあ、ヤサブロ、おめぇはブシなんだろ? ブケノコなんだろ? だったらやることは決まってるじゃねぇか。いくさを起こしてる他のブケをギャフンと言わせて、ごめんなさい、もういくさはしませんって謝らせればいいんだよ。・・・・・・いや待てよ? それじゃぁ、いくさをやめさせるためにいくさを仕掛けるってのか? そいつはいけねぇ、そいつはいけねぇや・・・・・・俺は自分で何を言っているのか、よくわからなくなってきちゃったぜ」
 中将が一人でまくし立てている間、大臣は、そうじゃのう、そうじゃのう、と相槌を打っていた。弥三郎は、話を黙って聞いていた。
「よーし、ヤサブロ、おめぇもブケノコなら、強くならなきゃいけねぇ。この俺様が、ちぃっとばかり揉んでやるよ。さあ、かかってきな」
 そう言うと中将は、中腰に構え、大きくシコを踏んだ。
 シバテンは相撲が好きな妖怪なのである。三度の飯より相撲が大好きなのである。シバテンが相撲をするといったら、相撲をするまで離さないのである。
 渋々ながら、弥三郎も立ち会う。見ていた大臣が行司をつとめる。
「ほっほっほ。二人とも、よろしいかね。見合って見合って・・・・・・はっけよい、のこった!」
 掛け声とともに、二人が組み合った。
 組み合ったとたんに勝負は付いた。
 あっけなく中将が転がされたのである。
「ほっほっほ。見事なものじゃな」
「いてて・・・・・・。さすがはブケノコ、ヤサブロだな。昔から相撲は強かったよな、その腕前は健在ってとこかい」
 弥三郎は武術が嫌いで、争いごとも嫌いで、軟弱に思われがちであるが、少なくとも身体能力に関しては常人のそれを上回る。もともとガタイはいい方なのだ。鍛えれば伸びる素質はある。
「もう一番!」
 中将の声で、再び立会いに移る。
 そして、弥三郎が勝つ。
「もう一番!」
 弥三郎が勝つ。
 それが延々と繰り返される。
 だがその内、中将に変化が起きる。番数を重ねるごとに、徐々に、体が重く、力が強くなってくるのだ。
 この相撲妖怪の術にはかなわず、さすがの弥三郎も進退窮まり、とうとう投げ飛ばされてしまった。
「へへへっ、一本! 勝負あったな、いや、いい勝負だったぜ」
 中将は得意満面の笑みである。
「そんなの反則だよ・・・・・・」
 弥三郎は不満そうな声を上げるが、その顔は満足げに笑っている。
 投げ倒されたまま横になっていると、運動後の心地よい睡魔がおとずれた。
 弥三郎の意識は、まどろみに落ちてゆく。

 再び弥三郎が目覚めた時には、すでに夕日が沈みかけていた。見ると、周りの風景には覚えがある。記憶を頼りに歩いてゆくと、愛馬の野分丸をつないでいる木立に突き当たった。縄をほどいて道に出る。
 帰る途上、今日はろくに食べていないことを思い出し、腹の虫が鳴き出した。
 城に帰ると弥三郎は父親から厳しい折檻を受けた。

 弥三郎、一七歳の、ある秋の日である。