新都社 文藝新都

第一話 弥三郎(やさぶろう)



 時は少しく遡(さかのぼ)る。

 天文二十四年(西暦千五五五年)。

 「長浜・戸ノ本の戦い」から五年ほど前、ある秋の日の、朝である。


「若様! ・・・・・・元親様!」

 土佐は岡豊(おこう)の城山に、小大名・長宗我部氏の屋敷がある。その一角、嫡男・弥三郎の寝起きする部屋めがけて、一人の壮年の武士が走る。弥三郎の養育係、江村親家(えむら・ちかいえ)である。武芸に秀でるこの男は、弥三郎の武術師範も兼ねている。
 途中、彼に声がかかる。
「おお、江村殿。今日も、『姫』のお守りに精が出ますなあ。はっはっは」
「だまっとれ、この!」
 あざけるような調子が癪(しゃく)に障り、思わず足を止めて一喝し、また急いで走り出す。
 やがて目的の部屋に到着し、息せき切って駆け込んだ。
「若、若はおられるか。若様はおられるか」
 肩で息をする江村に、答える声がある。
「兄上は早朝より鷹狩りに出かけられたご様子だ、江村殿」
 ため息混じりにそう言う男は、弥三郎の弟、左京進親貞(さきょうのしん・ちかさだ)である。ひらひらと、書き置きらしき半紙を指でつまんで揺らしている。親貞を除いて、部屋はもぬけの殻であった。
 江村は、天を仰ぐ。
「逃がしたか・・・・・・」
「そのようだ」
 親貞は頷き、続けて首を横に振る。
「まったく兄上は、やっかいごとに関しては、尋常でなく鼻が利く」
 江村のため息が大きく響く。
「いつもは部屋から出ようともせぬのに、いざ部屋にいてもらわぬと困る時には、決まってどこかに飛んでゆく。来春には一八になろうというお方が、このような体たらくであればこそ、周りの者に侮られるのですぞ、若・・・・・・」


 ――姫若子(ひめわこ)。
 弥三郎を知る者は、このように呼んでさげすむのだった。


 弥三郎は、武家の嫡男でありながら武芸の鍛錬を嫌っていた。
 日中、自室に閉じこもり、書を紐解いては気まぐれに、窓の外に視線を投げやり、空想夢想をさまよい遊んで一日を過ごす。読書の対象も、兵法書ならばまだしもだが、親しむ書物は源氏物語や紀貫之らの歌集である。口数は極端に少ない。必要最低限のことしか喋ろうとしない。訊かれたら、返事はするがそれだけである。人に対面しても目を合わせずに、伏せがちに視線を下ろす。背丈こそ、豪傑で鳴らす父親・国親(くにちか)に似て、並の男よりも頭一つ分は大きい。だがそれだけである。風貌は女にも似たでくのぼう。屋敷を出ずに深窓を好み、陽光にさらされぬ白肌の嫡子に、心無い者は後ろ指を指した。ついたあだ名が「姫若子」である。長宗我部弥三郎という男は、周りの目には、武人というにはあまりに女々しく映るのだった。


「兄上も兄上ですが、江村殿ももっと厳しく指導をしてはどうか。あなたは兄上を甘やかしすぎているようにも思えるぞ」
「面目ない・・・・・・」
 親貞は、肩を落とす江村に尋ねる。
「して、江村殿、兄上へのご用件とは、やはり」
 親貞は、国親の次男である。齢(よわい)一五でありながら、長身の父や兄に似て、すでに背丈は常人を凌ぐ。そして兄・弥三郎とは違い、黒々と日に焼けた健康的な男である。細身の兄に比べると、大男という印象が強い。物怖じをせず、目上の者にもはっきりと自分の意見を述べる親貞は、長宗我部家の将来を担う、前途有望な若者であることは、家中の皆が認めるところである。
 ――国親様は、お世継ぎを見誤られたのではないか。
 頭の片隅をよぎるものがあったが、なにを馬鹿なことを考えているのだ、と、頭を振って邪念を払う。養育係の自分がこのようではどうするというのだ。弥三郎様は優しい心を持ったお方だ。何も、悪気があってあのような周りの反感を買う真似をしているわけでは、ないのだ。きっと何か、お考えあってのことなのだ。養育係の自分が、弥三郎様を信じられずにどうするというのだ。
 気を取り直して、親貞に顔を向ける。
 今回の用向きは、武術の稽古の催促などという小さなことではなかった。もちろん、それも大切なことではあるのだが。
「左様、本山(もとやま)の件にございます」
 江村は表情を険しくする。
「あの男・・・・・・宿敵・本山梅慶(ばいけい)が死んだのですからな」


 土佐の情勢は風雲急を告げていた。


 応仁の乱より始まる戦国のならいは、例にたがわず辺境・土佐国にも及んでいる。
「土佐七雄」と呼ばれる七つの有力氏族が、この国を我が物にせん、と日夜、火花を散らしていた。土佐国中央部の西側一帯を牛耳るのは、「七雄」の最大勢力、本山氏である。その東側の境界線に隣接する領土を治めるのが長宗我部氏であった。
 両家は長年にわたり抗争を続けているが、長宗我部を苦しませてきた張本人こそ、本山家当主・本山梅慶その人である。梅慶は、山奥の一豪族に甘んじるのを潔しとせず、山岳地帯から実り豊かな土佐の平野に、昂然として軍を進めて来たのである。武勇と謀略に長けた梅慶は、この時すでに老いたりといえどもなお意気軒昂で、本拠地の本山城を子に譲り、自身は平野部を臨む攻撃拠点に居を移し、長宗我部侵略の陣頭指揮をとっていた。打倒本山を悲願に掲げる国親は、梅慶の侵攻に手を焼いていた。本山方にしてみれば、本山史上最大の版図を築いた梅慶は、まごうことなき英雄であった。しかしその英傑も迫る年波にはやはりかなわず、病床に伏し、この秋、ついに帰らぬ人となり果てたのである。梅慶逝去の一報がもたらされたことは、長宗我部にとって望外の天佑であった。

 江村につられて、親貞の表情も固くなる。
「梅慶はなかなかの人物だったらしいな」
「いかにも。敵とは申せども、まこと、したたかな武人でございました。槍を持てば猛虎のごとく暴れまわり、加えて悪知恵もたいそう働く男でございました。我らは、本山勢というよりは、梅慶と戦っておったようなものでございます。・・・・・・それと、あまり大きな声では言えませぬが、親貞様もご存知のとおり、かつて長宗我部家は、不名誉なことではございますが、梅慶の計略にかかり、滅亡の淵に立たされたこともあるのですからな」
「うむ、その話は何度も父上から聞かされている」
 国親の父親、つまり親貞の祖父は、本山梅慶率いる土着豪族の連合軍に居城を攻められ、無念の自害を遂げている。親貞は、落城し、拠点を失い、ほとんど何もない状態から長宗我部家を再興させた父上は、梅慶以上に優れた人物であると改めて誇りに思った。同時に、父上に非情な苦労を強いた本山は、やはり許しがたい、という怒りも高まる。
「ところで、親貞様は、なにゆえ元親様のお部屋におられるのですかな」
「そのことだ」
 親貞は大きくうなづく。
「昨夜、たまたま遅くまで起きていて、誰の声かはわからないが、本山梅慶が死んだ、という声が聞こえてな。本山梅慶といえば、長宗我部の宿敵、本山家の現当主、まさにその人だ。その男が死んだとなれば、当然、本山の当主は代替わりする。慣例に従えば嫡男だろう。しかし嫡男は、凡庸な人物であると聞く。凡庸との評価を受ける若い当主は、なにかと優れた先代と比較されがちで、先代の記憶がまだ新しい家臣たちからの尊敬は、どうしてもすぐには得られないだろう」
 そこに付け入る隙が生じる、と親貞は意気込む。
「むこうの体制の整わぬうちに攻め立てれば、たやすく本山の領土を削り取ることができるだろう。その軍議が、明朝にでも開かれるのではないか。軍議となれば、次期当主である兄上にも招集がかかる」
 しかし兄上はやっかいごとが、お嫌いだ。巻き込まれそうになるやいなや、逃げ出そうとする。そして兄上にとって軍議とは、やっかいごとにほかならない。
「兄上が逃げ出さないうちに捕まえておこうと思い、いそいでここに来たのだが・・・・・・」
「すでに去った後であった、と」
 江村は、これで何度目かわからない大きなため息を、もう一度吐いた。
 若様・・・・・・。近い将来、お家を担うことになるお方が、一体、どういうつもりでございますか・・・・・・。いや。よそう。養育係で武術師範のこの自分が、若様を、信じねば・・・・・・。
「兄上は俺がすぐに連れ戻す。だいたい兄上の向かいそうな場所は検討がつく。なに、いつものことだ、あまり事を大きくせずに、兄上は、季節の変わり目で体調が優れず、少々、軍議に遅参するとでも伝えておいてくれ」
 言うが早いか、親貞は、弥三郎を追って部屋を出ていこうとする。
「そういうわけにも、参りませぬが・・・・・・」
 ・・・・・・国親様が、次期当主に親貞様を定め直しても、若様、自分は文句を言えぬかもしれませぬぞ、と、江村はため息をもう一つ吐く。