新都社 文藝新都

第二話




 倉井九郎が「白い子猫」の噂話を最初に聞いたのは、彼が大学の食堂の片隅でカツカレーを食べている最中だった。隣のテーブルで食事をしている、下級生らしき二人組の女子学生の会話によると、一部の学生のあいだでは、すでに持ち切りの噂話らしい。
 この大学の近くには、貧乏学生に支持される家賃の安い下宿がいくつかある。その内のひとつに、学生たちから「清風荘」と呼ばれるボロアパートが存在する。築四十年の、崩れかかって亀裂が入った建物の隙間めがけて、裏山の方角から吹き降ろす清らかな風が、夏と言わず、冬と言わずに、年がら年中ぴゅうぴゅうと、涼しげな音を立てて部屋の中に吹き込んでくることがその名の由来である。その清風荘と大学をつなぐ道のりこそが、隣のテーブルの噂話の舞台であった。
 その話というのが以下のようなものだった。
 この大学では毎年秋に大学祭が開催される。暇を持て余して羽目を外したロクデナシどもの乱痴気騒ぎは今年もやはり催され、そのバカ騒ぎの熱狂もすっかり醒めた十一月中旬、つまり先週あたりのことだが、その頃から清風荘の近くで、白い小さな子猫を目撃したと証言する清風荘の住人が増えているという。もともと野良猫がそれほど多い地域ではなく、見かけるにしてもそのほとんどが三毛猫であったため、白い猫は珍しく、歩行者の印象に残るものらしい。不思議なことに白猫は、日が暮れるまでは姿を現さず、決まって夜に出歩くようだった。出現範囲はやや広く、特定の場所に出現するわけではないようだが、清風荘の正面玄関から大通りにかけての道程で目撃される例が多いという。両の手のひらに収まるほどの小ささゆえか、よほど猫が嫌いな人種でもなければ、夜風に身をふるわせる子猫にあわれみを抱き、手を差し伸べる者も少なくない。しかし人間が近づくと、ふっと背を向け、消え去ってしまうという。だいたいはその場にうずくまっているだけなのだが、通り過ぎる歩行者の顔を、観察するようにじっと見つめるその表情が、不気味といえば不気味である。極めつけは、その猫が、明らかに人間めいた笑い顔を見せた、という証言があることである。目の周りの筋肉を動かさず、にいっと口の両端を釣り上げて笑うのである。さらに、二足歩行をしていた、尻尾が二本あった、いやそれどころか人間の言葉を喋ったなどという話もある。小さく白いこの猫は、実のところ、はたして一体何者なのであろうか。

 かちゃん、と音を立ててスプーンを皿に倒し、九郎は椅子から立ち上がった。
 バカバカしい。ただ路上で白猫を見たというだけの話ではないか。騒ぎ立てるほどのことではない。
 食器返却棚にカレー皿とコップを置き、ごっそさん、と調理室の奥に声をかけて、九郎は食堂をあとにした。
 歩きながら、バカバカしい、と今度は口に出して言った。猫がいたからどうと言うのだ。白い猫なぞ、世にごまんといるだろうが。猫もおかしければ笑うだろう。二本足で立つ猫も何かの動画で見たことがある。尻尾が二本あっただの、喋っただのは、酒浸りの酔っ払い学生の幻覚幻聴に違いない。まったく近頃の大学生は堕落している。そのような学生はまったく本学の恥である。まったく、まったくバカバカしい。
 心中で悪態をつきながら、九郎は研究室に急ぐ。彼は猫が嫌いな人種であった。小さくて可愛らしいものにも嫌悪感を覚える人種でもあった。そしてなにより、怪談めいた話がことのほか苦手な人種であった。その上、具合が悪いことに、九郎の下宿は清風荘の一〇五号室である。普段から裏道を歩いて通学していたために白猫の存在に気がつかなかったまでである。白猫は、九郎のすぐそばに存在していた。額の冷や汗を拭いながら、これは暖房の効いた食堂でカレーを食べていたから汗が出たのだぞと、心の中で言い訳をしつつ、鳥肌が立った腕をこすりながら、これは暖房の効いた食堂から、寒風吹きすさぶ屋外に出たからなんだぞと、胸の内で言い訳をしつつ、足早に道を急ぐのだった。
 ふと、頭の隅をよぎる影があった。この手の話に尋常ならざる興味を示す人間を、少なくとも一人、俺は知っている。そいつは、えらく頭が切れるやつだが、特殊な出生からか興味の対象がオカルト関係にえらく偏っていて、とても賢いが、とても残念な頭脳の持ち主で、すこぶる美形だが、すこぶる身だしなみにだらしがなく、寝起きの悪さにはため息が出るが、覚醒後の変貌ぶりはため息が出るほどで、非常に利己的だが、非常に義理堅い一面もあわせもつ、他人に優しく自分に甘い、積極的に消極的な、最終学歴は中卒の、采顔寺という寺の片隅にある朽ちかけた納屋に寝泊りし、将来なりたい職業は霊媒師という、わけのわからぬどうしようもない幼馴染の女である。街を徘徊することも多いが、たいていは寺に引きこもっているあの女を最後に目撃したのは半年ほど前のことだっただろうか。そういえば最近は奴を見かけないな。簡単にくたばる人間ではないが、柿か何かを手土産に、たまには顔を出してやってもいいかもしれないな。そのためにも、教授から急かされている課題を早いとこ済ませないといけないな。
 無意識のうちに、白猫の怪談をたくみに意識から退けた九郎は、先程からしてみると少しだけ落ち着いた表情でキャンパスを歩き出した。